
2010年01月17日
震災・1.17・15の君へ
今年もこの日がやって来ました、SLで迎える3回目の1月17日です。
09年と08年はBOUSAI KOBE SIMにあった鎮魂の場で黙祷をしましたが、去年3月に閉鎖されてしまったのでウチで静かに思いました。

15年前の朝、私は遠くから近づいてくる音に一瞬だけ早く目が覚めた気がしました。
何の音か考える間も無く次の時には目だけ残して上下に揺れて書かれるマンガの様に
(通常は地震といえば横揺れですが)縦方向に激しく揺さぶられていました。
数秒遅れて今度は横揺れが入り混じり、まるで何かにつかまれたかのように振り回されて放り投げられました。
それは音にするとドドドドド、ガンガンガンガンガンという感じでした。
1995年1月17日の午前5時46分に神戸市と淡路島を結ぶ明石海峡大橋(当時は工事中、地震で1mずれたそうです。)
の近海を震源として発生した阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震・阪神大震災)です。
私の住んでいた家は鉄筋の集合住宅だった為ヒビは入りましたが全壊も半壊もせず、そのまま太陽が出るのを待つことになりました。
少しして明るくなってくると向こうに煙った空が見えました、(後でそれは火災の煙だったとわかりました。)
しかしこの時はガスも水道も電気も駄目でもちろんテレビを見れていないので何の煙かは判りません、
私は「ココがこんな状態だったら他の街も駄目なんだろうな」と何となくと考えていました。
しかし復旧したテレビ(電気)を通して知ったのは、その地震は局地的なもので、範囲は集中し限られるというものでした。
日が経つに連れて増える死者数、倒壊や取り壊しで姿を消す建物、災害派遣の自衛隊、多くの工事車両に飛び回るヘリコプター、
大きくサイレンを鳴らして走りまわる他府県の消防や警察もストレスでしたが、どうしてもマスコミは目障りに感じてしまったものです。
何より感じたのは少し離れただけの大阪梅田などはが通常通りだったので、被災地のみが孤立してしまっているという思いでした。
それは3月に地下鉄サリン事件が起きて世間の(東京を中心としたマスコミの)関心が薄れてからはなおさら強く感じられました。
15年という時間が過ぎてから見れば、これまでに誰だって皆自分の好きな場所やお店や人を失っているかと思います。
ですがそれはあまりに一度過ぎました、徐々に街が変化するのではなく見慣れたものがいっぺんに無くなってしまいました。
もちろん私の被害など無い様なものでしたが、やはり気持ちに大きなものが残った出来事・体験だったと思い返します。
日本時間の13日カリブ海にあるハイチで大きな地震が起きました、日本の「緊急」援助隊が到着するのは明日になるそうです。
岡田外相はマスコミの「遅いのでは?」に対して言いました、「ニーズを探ってから派遣するのは必ずしも悪い選択ではない。」
確かにそうかもしれません、ですがあまりに初動が遅いようでなりません、あの時の村山政権の様に。。。
近いアメリカ、縁のあるヨーロッパはもとより、同じく大地震の有った中国や台湾もすでに(思惑があるにせよ)駆けつけています。
現地で数日活動して疲れきっている各国の救援部隊に今更の目で見られるであろう日本の援助隊の方々も気の毒に思います。
民社国であれ自公であれ、日本や首都圏や自分達政治家に関係無いからといって深く考えない姿勢をもう少し変えて欲しいと思います…。
ソラマメスタッフブログ ハイチ地震救援金
読んでくれてありがとうゴザイマース(^▽^)、「ウムよろしい」と言われる方は上下の広告クリックで学校へのマメタご支援を~><
↓^^b Dzalarhons北高校、学校前の鷹羽洋品店ではラッキーボードも稼動中、無料制服も置いてます~。
http://slurl.com/secondlife/Dzalarhons/230/214/240
アンジェラ・アキ Angela Aki - 手紙 ~拝啓 十五の君へ~
09年と08年はBOUSAI KOBE SIMにあった鎮魂の場で黙祷をしましたが、去年3月に閉鎖されてしまったのでウチで静かに思いました。

15年前の朝、私は遠くから近づいてくる音に一瞬だけ早く目が覚めた気がしました。
何の音か考える間も無く次の時には目だけ残して上下に揺れて書かれるマンガの様に
(通常は地震といえば横揺れですが)縦方向に激しく揺さぶられていました。
数秒遅れて今度は横揺れが入り混じり、まるで何かにつかまれたかのように振り回されて放り投げられました。
それは音にするとドドドドド、ガンガンガンガンガンという感じでした。
1995年1月17日の午前5時46分に神戸市と淡路島を結ぶ明石海峡大橋(当時は工事中、地震で1mずれたそうです。)
の近海を震源として発生した阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震・阪神大震災)です。
私の住んでいた家は鉄筋の集合住宅だった為ヒビは入りましたが全壊も半壊もせず、そのまま太陽が出るのを待つことになりました。
少しして明るくなってくると向こうに煙った空が見えました、(後でそれは火災の煙だったとわかりました。)
しかしこの時はガスも水道も電気も駄目でもちろんテレビを見れていないので何の煙かは判りません、
私は「ココがこんな状態だったら他の街も駄目なんだろうな」と何となくと考えていました。
しかし復旧したテレビ(電気)を通して知ったのは、その地震は局地的なもので、範囲は集中し限られるというものでした。
日が経つに連れて増える死者数、倒壊や取り壊しで姿を消す建物、災害派遣の自衛隊、多くの工事車両に飛び回るヘリコプター、
大きくサイレンを鳴らして走りまわる他府県の消防や警察もストレスでしたが、どうしてもマスコミは目障りに感じてしまったものです。
何より感じたのは少し離れただけの大阪梅田などはが通常通りだったので、被災地のみが孤立してしまっているという思いでした。
それは3月に地下鉄サリン事件が起きて世間の(東京を中心としたマスコミの)関心が薄れてからはなおさら強く感じられました。
15年という時間が過ぎてから見れば、これまでに誰だって皆自分の好きな場所やお店や人を失っているかと思います。
ですがそれはあまりに一度過ぎました、徐々に街が変化するのではなく見慣れたものがいっぺんに無くなってしまいました。
もちろん私の被害など無い様なものでしたが、やはり気持ちに大きなものが残った出来事・体験だったと思い返します。
日本時間の13日カリブ海にあるハイチで大きな地震が起きました、日本の「緊急」援助隊が到着するのは明日になるそうです。
岡田外相はマスコミの「遅いのでは?」に対して言いました、「ニーズを探ってから派遣するのは必ずしも悪い選択ではない。」
確かにそうかもしれません、ですがあまりに初動が遅いようでなりません、あの時の村山政権の様に。。。
近いアメリカ、縁のあるヨーロッパはもとより、同じく大地震の有った中国や台湾もすでに(思惑があるにせよ)駆けつけています。
現地で数日活動して疲れきっている各国の救援部隊に今更の目で見られるであろう日本の援助隊の方々も気の毒に思います。
民社国であれ自公であれ、日本や首都圏や自分達政治家に関係無いからといって深く考えない姿勢をもう少し変えて欲しいと思います…。
ソラマメスタッフブログ ハイチ地震救援金
読んでくれてありがとうゴザイマース(^▽^)、「ウムよろしい」と言われる方は上下の広告クリックで学校へのマメタご支援を~><
↓^^b Dzalarhons北高校、学校前の鷹羽洋品店ではラッキーボードも稼動中、無料制服も置いてます~。
http://slurl.com/secondlife/Dzalarhons/230/214/240
アンジェラ・アキ Angela Aki - 手紙 ~拝啓 十五の君へ~
Posted by Keity Nagy at 23:17│Comments(2)
この記事へのコメント
うちの母もあの日、神戸のホテルに宿泊する予定でしたが部屋がとれず急遽京都のホテルに宿泊して難をのがれたんですよ><
連絡が取れずに心配した記憶があります。
連絡が取れずに心配した記憶があります。
Posted by れこあ at 2010年01月20日 20:32
rekoaさんこんにちはー、遅くなって申し訳ありません。
そうなんですね、お母様宿泊されていたら、鉄筋のホテルとかは大事にはならなかったでしょうが、
交通手段無いし買える為に地域から出るのが大変だったでしょうね。
大事無くて何よりでした、ではではー^^/
そうなんですね、お母様宿泊されていたら、鉄筋のホテルとかは大事にはならなかったでしょうが、
交通手段無いし買える為に地域から出るのが大変だったでしょうね。
大事無くて何よりでした、ではではー^^/
Posted by Keity=Enewiy
at 2010年01月24日 11:30
